尾瀬の地名とその由来

地 名 意味又は由来
尾瀬  古文書には「小瀬」又は「尾瀬」と載っています。語源学から言えば「尾瀬」は「生瀬」が正しく、生瀬は浅い水湖中に草木が生えた状態で湿原の意味。奥上州の古い方言では卑湿地のことを「おぜ」と呼んでおり、宛字の「小瀬」とか「尾瀬」という地名が生まれたという説があります。
大清水  群馬県側の尾瀬の登山口のひとつ。「大清水沢」は大清水の手前約200mにある樹陰と冷徹な水(7℃)に恵まれた沢で、道路より約200m上流から豊富に湧出しています。
トマブドウ沢   山葡萄が多く見受けられるところから、この名前がつきました。「中ブドウ沢、沖ブドウ沢」トマとはとっつきまたは最初、オキとは奥の意味です。
一ノ瀬  大清水〜三平峠間にあり、最初に川を渡るところという意味です。(当社施設休憩所有り)
岩清水  一ノ瀬休憩所から三平峠に行く途中、車道と交わる地点より少し手前に湧出する冷徹な清水で、昔からここを通過する者に利用されてきたが、車道工事のため破壊されこれが引き金となり工事が中止となったといわれているが、その後復旧されています。
冬路沢  冬になると沢を埋める雪の上が峠への通路となるところから付けられました。
大岩  岩清水から三平峠へ登って行きジグザグの道を登りきる寸前に大きな岩塊がたちはだかり、昔から三平峠への目標となっていたところです。
三平見晴台  尾根に登りついてほぼ平坦となり展望のきく所です。西に至仏山、白尾山、南に赤城山、富士山、眼下に片品川の谷が見渡せます。
三平峠  樹林帯のため展望が利かず、別名「尾瀬峠」ともいう。(1、762m)
三平下  三平峠を下り尾瀬沼畔に降り立つ一帯をいい、当社の尾瀬沼山荘、休憩所と尾瀬山の家があります。以前には渡船の発着場があり沼尻、長蔵小屋間を運行していました。(昭和47年廃止)
尾瀬沼  燧ケ岳の噴火によりできた堰止湖で群馬、福島県境にあり昔は境沼と呼ばれていまいた。尾瀬沼の主は沼がいっぱいになるほどの牛と言われており、その牛の尾から瀬が流れていたので尾瀬の名前がついたとも言われています。(海抜1、666m、周囲13km、長径約2km、短径約1.2km、最大水深9.5m)
木道  広辞苑にも記載されていない言葉で尾瀬で生まれ育った木の道のことです。尾瀬のシンボル的存在である木道の起源は昭和9年の李王殿下来山時に遡るといわれますが、昭和29年から本格的に改良整備され一般的には昭和39年頃から言葉として認知されるようになりました。
早稲ッ沢  晩秋の頃、この付近で一番早く岩魚が産卵に遡上するためこの名前がつきました。
桧の突出  岬か゛檜高山からの溶岩流の突き出しだという昔の人の直感からこう呼ばれました。
弁天岩  桧の突出の先端の沖にある岩。昔桧の突出の沼田街道にあった弁財天の祠をここに移し、後に故あって元にもどしたが名前だけが残こりました。
釜堀湿原  尾瀬沼ビジターセンター南方、群馬福島県境をなす釜堀沢に続く湿原であり、国有林と管理地境となっています。釜堀の由来は不明。
奥ッ沢  尾瀬沼ビジターセンターの先にある沢で、一番遅く岩魚が産卵に遡上するためこの名前がつきました。(晩生種の稲が奥手と呼ばれるのに因している)
大江川湿原  尾瀬沼畔から沼山峠の麓の間の湿原で、大江川両岸に発達しています。(長径約2m)
尾瀬塚  尾瀬沼の大江川湿原から尾瀬ヶ原林道に入る手前数m左側の湿原の中に、直径4m高さ1mの饅頭型の塚がある。その昔尾瀬中納言藤原頼実の亡骸を納めた塚だといわれています。
戊辰戦争跡  大江川湿原を沼山峠に向かって行き小渕沢方面分岐点から少し行くと湿原の中に会津戊辰戦争の際に会津勢が築いた堡塁があります。四囲を土塁を積み上げて作った防備陣地で、4ヶ所に見受けられます。現在は植物が密生していて夏季は見つけにくいです。
尾瀬ヶ原林道  大江川湿原で沼山峠方向と分岐しており、ここから尾瀬沼北岸道、沼尻、白砂湿原を経て下田代十字路(見晴)までの間を言います。
燧新道  尾瀬沼北岸道から分岐しており、昭和34年平野長英氏により開設され長英新道とも言います。
浅湖湿原  アザミとは浅い湖の意味で、湿原が形成される最も初期の段階の地帯で非常に湿潤です。
皿伏新道  尾瀬沼南岸道から分岐しており、尾瀬沼と富士見峠を結ぶ登山道で大清水平、皿伏山、白尾山,マイクロウェーブ台地を経ています。
大入州  浅湖湿原からまた森林地帯に入った所で沼に大きく突き出している地帯をいいます。燧ケ岳の溶岩流が尾瀬沼に流れ込んだために、この半島状の地形ができたものです。
押出し沢  沢の出口が沼に押し出した感じから名づけられ、御出し沢と書かれた地図も一部有ります。
イカケバ  尾瀬沼南岸道にある細長く入り込んだ入り江。昔この沼で溺れた鋳掛屋(いかけや)の遺体が漂着したところから「イカケバ」と呼ばれるようになったとの言い伝えがあります。
小沼  尾瀬沼と対比して小さいのでこう呼ばれ、大昔この二つの沼は曲がり田代を通じて続いていたと推定されます。日本庭園的なまとまった景観のところです。
ナデッ窪  「ナデ」とは雪崩れの意味で、雪崩ッ窪と書く。ナデッ窪は最も古い登山道で急登路だが最も短時間で登降できます。
燧ケ岳  6月頃檜枝岐村から眺めるとマナイタグラの左斜面に鍛冶屋の使用する「火打鋏」の形の残雪が残るため、この呼び名があります。また、火を噴く山であったからとの説もあります。東北以北最高峰で、頂上は五峰(マナイタグラ、シバヤスグラ、御池岳、赤ナグレ岳、ミノブチ岳)に別れており、また遠景では双耳峰に見えます。(標高 マナイタグラ2、346m シバヤスグラ2、356m)
沼尻  沼の水の吐き出し口であるところから、この名前がつきました。
白砂峠  尾瀬沼から白砂湿原をすぎた所の50m程登りの峠。またの名を白砂乗越と言われます。
沼尻川  群馬、福島県の境界であり、尾瀬ヶ原に入って下田代、中田代の境となっています。ヨッピ川と合流して只見川 (赤の川、赤川) となります。
白砂沢  川底が白い砂地なので白砂沢、白砂川と呼ばれています。
段小屋坂  昔ここに段々になって小屋が掛けてあり、この名前が付きました。
イヨドマリ沢  「魚止まり」から発生し、魚止り沢と書きます。この沢が沼尻沢と合流するあたりの本流に魚止めがあるからと言われています。
見晴  昔は丈堀と呼ばれており、その後四方から路が合流することから十字路と呼ばれ、昭和30年代から見晴と呼ばれています。(下田代十字路)
尾瀬ヶ原  燧ケ岳噴火の溶岩流に因する堰止湖が周囲の土砂の流れ込みにより浅くなり、そこに岸のヨシや水生植物などが増殖堆積し湿原化したもので、本州最大の高層湿原です。湿原植物、昆虫類など貴重な種類が多く分布し極めて重要な地域です。
丈堀  弥四朗小屋のすぐそばに湧く清水のことを言い、丈右衛門という漁師が最初に小屋掛けをしたのでこの名で呼ばれています。この湧き水は丈堀川となって赤田代に向かう木道沿いに流れ只見川に合流します。
田代  田を作れそうな所と言う意味ですが、現在では湿原の意味に使用されています。
池溏  湿原にある溜まり水または池。命名者は故武田久吉博士で「池塘」と書く人もいます。
下田代  範囲は沼尻川から北で赤田代、見晴に囲まれた地域です。
拠水林  川の流れで土砂が運ばれ堆積しその上にできた林です。
六兵衛堀  名前の由来は不明。見晴から沼尻川の間にあり拠水林を形成しています。
赤田代  鉄分の有る鉱泉が流れ込み、また湧き出すため湿原が赤い色をしており、この名前が付きました。
尾瀬ヶ原温泉  炭酸性で鉄分を含む赤錆色の低温泉が湧出しており当社元湯山荘で使用しています。
温泉小屋新道  昭和7年、星段吉氏により開設、赤田代登山口より前半は緩い沢道、後半はきつい急登路で頂上直下で見晴新道と合流します。
見晴新道  尾瀬ヶ原林道より分岐しており、後半はかなりの急登路で一番新しく開かれた登山道です。
御池新道  昭和27年山口営林署により開設、途中に湿原(熊沢田代、広沢田代他)があります。
只見川  別名を赤の川。只見川という呼び名は、伝説に虚空像尊が牛や蛇に乗って川を下ったが、当時この川は両岸を樹木が青々と繁り、断崖が川に迫り昼なお暗く見ゆるものは只川ばかりという状態だったので後年誰言うことなく只見川と呼ぶようになったと言われています。
平滑ノ滝  燧ケ岳の溶岩流により作り出された傾斜角25度位の大スラブ上を、長さ500mにわたり奔流する滝で、この滝の形状から名付けられました。
三条ノ滝  三十丈ノ滝がなまったものとも、渇水時に三筋に別れて落下するからだとも、また三十丈の落差が有るからとも言われています。(別名 大滝、不動滝)
東電尾瀬晴橋  関東水電が大正11年に尾瀬の水利権を獲得し水位観測用に架設したのが始まりです。その後東電橋、尾瀬ヶ原橋と改称され昭和44年吊橋に架け替え、さらに昭和60年板橋に架け替え、名称が東電神田理事により命名され現在に至っています。
尾瀬先  東電小屋の北側にある笹山(1、537m)の別名です。また東電小屋付近を言います。
ヨシッ堀田代  「葦ッ堀田代」東電小屋西側の湿原で中程をヨシッ堀が流れており、これから名付けられました。名前の通りヨシが多い湿原です。
ヨッピ川  アイヌ語の転訛したもので川が集積している所をヨッピと言います。尾瀬ヶ原で唯一の吊橋が「ヨッピ吊橋」です。
大釣  ヨッピ川と沼尻川の合流点で、ここが絶好の岩魚釣り場であるためこの名前が付きました。現在尾瀬地域は禁漁で、また三県(群馬、福島、新潟)の境界です。
泉水池  尾瀬殿の泉水であったという伝説の池で、八海山麓の泉水田代にあり、木道は付いておらず立ち入りはできません。
竜宮  大正10年夏に関東水電が尾瀬ヶ原を調査測量したときに富士見小屋の萩原武治氏等が発見してもので、長沢の水がそっくり穴の中に流れ込んでしまうのを見て驚き、この穴は竜宮まで通じているだろうと言うことで、こう呼ばれるようになりました。(竜宮カルスト)
中田代  沼尻川と上ノ大堀川間を言い、上・中・下と区分されている尾瀬ヶ原の湿原のなかで一番広いところです。
寺ヶ崎  竜宮小屋付近に突き出している尾根を言います。昔ここに寺があったと伝えられています。
下ノ大堀川  尾瀬城の要害として掘られたとの伝説があり、長沢、セン沢、伝ノ丞沢が合流し中田代を流れ拠水林がないのが特徴であり、水芭蕉の群落の絶好の写真ポイントとなっています。
皮籠岩  竜宮小屋裏にある巨岩で、尾瀬大納言の皮籠(皮で張った籠)が岩に化けたものだと伝えられています。
舟ヶ淵  牛首の尾根裾にある細い淵。
牛首  見た感じが牛の首のようだといわれこの名前があります。
上ノ大堀川  牛首沢、広窪沢、小テンマ沢などの沢水を合わせた流れで牛首の尾根裾を通り流れています。特徴として中流以上では拠水林が発達しているが下流にはありません。
上田代  尾瀬ヶ原で最も上流に位置する湿原で、上ノ大堀川から山の鼻にかけての地帯を言います。
ゆるぎ田代  上ノ大堀川付近で、歩くたびに振動を感じるところからこの名前が付きました。(揺るぎ田代)
鶴ヶ墓  牛首の西側にある小さな塚で平安時代の終わり頃、源義家が大切にしていた鶴を義家に敗れた阿部貞任が一族の飢餓を救うため1羽を殺し部下に訴えさせ、義家から賞金を得て一族の命を救ったといい、この身代わりとなった鶴を哀れんだ貞任が築いた墓だと言われています。
背中アブリ田代  (背中炙田代)猫又川、ヨッピ川とに囲まれた八海山下の湿原。(上田代に含まれる)
山ノ鼻  至仏山の裾が鼻のように突き出ているところから名付けられました。
猫又川  大白沢山を源頭とし川上川合流までの間を言い、山の根っこ(根元)を流れるという意味からネッコ川、また尾瀬伝説の人物、猫彦五郎(又は根子彦五郎)がこの地に住んでいたのでこの名があるとも言われています。(高倉ノ宮似仁王の従臣、参河少将光明の家臣)
ムジナ沢  狢沢。別名至仏沢とも言い、登山道が開かれない時代はこの沢が唯一の登山ルートでした。至仏沢は渋沢の意味で沢の岩石が赤渋色をしており、また沢の藪くぐりの難行で登りつめたところから、この沢の名前が山の名前になったと言われています。
川上川  ヨッピ川の上流であることから付けられた。
至仏山  四仏山、守仏山とも言われています。中腹に「高天ヶ原」「賽ノ河原」などと神仏合体を意味する地名を持つ山です。
八木沢   トカチヤナギの巨木が多いところから柳沢と呼ばれそれが転訛して八木沢になったと言われています。
アヤメ平  山稜に発達した湿原です。(標高1、968m)山頂の楽園と呼ばれる大湿原にはアヤメは1本も無く、その昔当時の土地所有者であった横田千之助が湿原に群生するキンコウカの葉をアヤメの葉と見誤り命名したと言われています。
富士見峠  富士山が見えるところからきています。昔は硫黄沢乗越と呼ばれていました。
中ノ原  アヤメ平の一帯をこう呼びます。
馬洗淵  尾瀬大納言が馬を洗った所だとの伝説があ3、田代原から少し登った所だが道下の笹薮の中にあるため注意しないと見落とすことがあります。
田代原  富士見下から登山道を登っていくと緩い傾斜地となる所でここが田代原です。昔は湿原であったということからこの名前が付きました。
白尾山  本来は「シロー」であると言われており、山の南東面に木の生えていない所があり、冬季に雪の吹き溜まりが起こることからシローと呼んだので測地図作成時「白尾」と書かれたものと言われます。
荷鞍山  山が馬の鞍に似ていることからこの名前が付きました。
皿伏山  遠くから眺めると皿を伏せたような山容からこの名前が付きました。
狩小屋歩道  水上町から尾瀬に入る唯一の歩道で、湯ノ小屋温泉から楢俣川沿いに約12km遡行した所が狩小屋(無人小屋で7〜8人収容)、更に狩小屋沢を約5km(4〜5時間)登り詰めた源頭が、至仏山鞍部でそれを下ると尾瀬ヶ原です。(現在廃道)
鬼怒沼湿原  この湿原には昔衣姫(絹姫)が住んで機(はた)を織っていたという伝説から名付けられたと言われ、鬼怒は「衣」又は「絹」の意味であると言われるが、正しくは毛野(けぬ)の転訛語だとの事で、毛野は両毛(上野、下野)地方の古語です。鬼怒沼山、物見山などに囲まれた南北3km、東西2kmの湿原で、大小40あまりの池溏があり尾瀬ヶ原を小規模にしたような所です。鬼怒川の最源流で群馬、栃木の県境にあたり、アヤメ平と同様の成因による高層湿原です。
桧高山  桧枝岐村の人は「ネズコ」のことを「クロビ」または「ヒノキ」と呼んでおり、この山の後ろ側にネズコの大木が群生していたところから、この名前で呼ばれるようになりました。
沼山峠  かつて山火事で焼けたところから別名焼山峠とも呼ばれ、昔は沼越峠と呼ばれたこともあります。
御池  昔、池であったと言うことからこう呼ばれています。 
うさぎ田代  このあたりはウサギが多いことから名付けられたと言われます。(兎田代)
段吉新道  温泉小屋初代主人である星段吉氏により昭和12年に開設された赤田代〜兎田代間の登山道で、以前は赤田代から平滑ノ滝を通り三条ノ滝手前より兎田代に登るためきつかったが、これにより高低差が緩くなり登山が楽になりました。
景鶴山  「這い摺る」の宛て字か転訛語がもとになっており、南側に「ヌー岩」と呼ばれる砦のような岩稜が頂上付近にあるペチィオニーテ型の山です。ヌーとは、藁や薪を積み上げたものの俚称です。
八海山  背中アブリ田代の上にそびえる山で別名を背中炙山とも言います。この山には新潟の八海山の分祠が祭られ、片品方面の人々の雨乞いの山であったと言われます。(背中炙山とは樹木が多く日向ぼっこをするのに良いというような意味である。)
岩塔盆地  八海山、景鶴山、大白沢山などに囲まれた盆地を総称して呼んでおり、西丸震哉氏が命名。この地が初めて上空より撮影された時、中央に岩の塔があるように見えたのでこの名前が与えられました。その後同氏が実施調査したところ岩の塔はなく栂の古木が密生した丘であることがわかりました。
河童山  航空写真調査の結果発見され西丸震哉氏が無積雪期に調査(初登頂)し、頂上の火口跡が湿原化し丸く湿原が抜けたようになっているところから、河童の頭になぞらえて名付けられました。その後川崎隆幸氏が踏査し「マイナーピーク」と名付け、さらに東大の久野久博士が踏査してアスピーテ火山であることがわかったので久野火山とも呼ばれます。
靭ノ滝  片品川支流中ノ岐沢にある縦横約20mの滝です。(索道土場付近)別名「ヘゴウ(瓢か?)ノ滝」
荷置小屋  尾瀬沼南岸(沼田、若松線)で会津側から酒、上州から日用品が持ち込まれ物々交易に使用されていた小屋で、明治27年利根水源探検隊が尾瀬を通過した頃は、まだ小屋が残っていたと記録されています。
湿原回復  人為的に荒廃した湿原を、種子を蒔いたり健全な湿原を移植しようとする作業のことで、昭和41年から実施しています。
背負子  ボッカ、強力、ポーターと呼んでいる他の山岳地域もあります。鳩待峠から尾瀬ヶ原の各山小屋(13軒)へ生鮮食料品他を背負って行き、帰りには空き缶他を鳩待峠まで背負って運搬します。
草紅葉  湿原植物が紅葉または黄葉することを言い、尾瀬の秋は草紅葉から始まります。